Miyacology

脳循環を仮想空間上で再現し疾患の予測精度向上に挑む

バイオメカニクスとは、力学体系を用いて、生体現象の物理機構を解明していく学問体系。
医用計測、実験観察、数理モデル、計算科学といった様々なアプローチが使われる。
2023年度に文部科学省の「スーパーコンピュータ『富岳』成果創出加速プログラム」に採択され「『富岳』で実現するヒト脳循環デジタルツイン」の開発に挑むシステムデザイン学部機械システム工学科の伊井仁志准教授にお話を聞きました。

伊井 仁志 准教授

II Satoshi
システムデザイン学部 機械システム工学科
(兼)医工連携研究センター

千葉大学工学部電子機械工学科卒業後、東京工業大学総合理工学研究科創造エネルギー専攻博士後期課程修了。東京大学工学系研究科特任研究員や、大阪大学基礎工学研究科助教・特任准教授を経て2018年より現職。専門はバイオメカニクス、計算科学。

臨床データを基に、脳循環を仮想空間上で再現

私が「スーパーコンピュータ『富岳』成果創出加速プログラム」で目指しているのは、脳全体の循環場を表現できるシミュレーションモデルの開発です。脳研究では、神経回路がシミュレーションのターゲットになることが多い中、私は神経系がコントロールしている先の血液や脳脊髄液の循環にアプローチ。具体的には脳動脈瘤、正常圧水頭症、頸部頸動脈狭窄症の3つの疾患を中心とした予測精度の向上が目標です。

ただし、人によって脳や血管の細かな形状は異なり、血液などの流れ方も違うため、個人差をいかにモデルに反映させるかが肝心です。まずはCTやMRIなどで3D計測を行った臨床データから、個々の脳や血管の形状データを抽出する画像処理を実施。その上で仮想空間上にそれらの形状を再現し、そこに血液などが流れるシミュレーションモデルを構築して罹患リスクの予測につなげます。

例えば、血管がコブ状に膨らんだ脳動脈瘤の破裂は、くも膜下出血を引き起こし、死亡リスクが非常に高くなります。破裂は血液の流れ方によって血管の内皮細胞が炎症性の物質を出し、血管の内壁が弱くなることが要因。シミュレーションによって血液の流れ方と、血管の内壁にどの程度の負荷を与えるかという流体解析を行い、血液が内壁を“こする力”や“押す力”を数値的に評価することで、危険度の判断指標として利用できるのです。

将来的には外科的手術に貢献できる可能性も

脳の血管を流れる血液は、個人毎に異なる血管形状や駆動する大きさの違いに由来し、その流れ方も異なります。そこで、気象予報などで用いられる「データ同化」と呼ばれる技術を駆使し、個人別の違いを反映した解析を行います。これにより、個人毎に異なる血流場を再現し、血管内壁への負荷を評価できるのです。

ある部分で血管が詰まるとその先に血液が流れなくなり、酸素が供給されずに細胞組織が死に至ることで脳梗塞を引き起こします。その際、脳内で分岐した血管が再び交わる「吻合血管」が脳梗塞の程度に影響を与えるとされています。この吻合血管が脳全体での血流分布に与える影響をシミュレーションモデルの構築によって明らかにできれば、外科的手術での血管のつなぎ方にも役立てられるはず。従来の経験則に基づいた手術から、定量的な指針のもとで手術ができるようになるのです。さらに、脳血流のモデル化によって得られる知見は、将来的に心臓内の血液循環に関わる研究などにも還元できると考えています。

膨大な臨床データの機械学習に「富岳」を活用

統合的なデジタルツインの構築には膨大な臨床データが不可欠ですが、実際に大人数の臨床データを入手することには難しさもあります。そこで、シミュレーションモデルによって個人の脳内を再現した後、例えば血管の太さや血流量、血流の速度など、条件を変えてデータを“水増し”するような手法を用います。こうして仮想的な臨床データを増やした上で、機械学習モデルを構築する際に有効なのが、「富岳」が持つ潤沢な計算資源です。

また、個人の脳内を再現する際に、元となる臨床データにノイズがあるケースもあります。さらに脳血管のモデリングでネックになるのが、毛細血管のデータまでは抽出し切れない点です。そこで、解剖学的な過去の先行研究によって明らかにされた知見や法則に従って、想定される毛細血管の形状や分布を設定。これも多様に条件を変えて機械学習の対象とします。こうして作り出した機械学習のモデルは、数値シミュレーションの代替として利用することができ、解析にかかる時間を大幅に削減します。これは、臨床場でのリアルタイムな予測手法の確立に繋がります。また、機械学習は相関関係を見つけることが得意であり、従来の解析方法では解明できないことを明らかにしてくれると期待しています。

あらゆる人に適用可能な脳循環モデルを構築

「富岳」を活用するプロジェクトのゴールは、「脳循環デジタルツイン」の開発です。デジタルツインとは、実空間で得られる情報を基にした“双子”を仮想空間上で再現すること。以前から画像ベース解析や個別化解析といわれるような、患者さん個々の再現データの構築は行われてきましたが、私が目指すのは、複数の患者さんの再現データを仮想空間上で統合し、すべての人の脳循環を表現できるデジタルツインを構築することです。この統合データと特定の患者さんのデータを照合することで、相対的に疾患の予測精度を高められると考えています。複数の患者さんから経時的にデータを取り、ある人は脳動脈瘤が破裂もしくは成長し、ある人は破裂も成長もしないとしたら、血液の流れの違いから破裂の予測精度が高まると考えられるのです。

この統合的なデジタルツインの構築に必要なのは、個々の状態を再現するシミュレーションモデルと、複数の患者さんの臨床データ、そして膨大な臨床データを解析するための機械学習のモデルです。

生命現象への探究心が研究のモチベーションに

私は、生命現象が力学や物理全般の原理原則に従って生じているというバイオメカニクスの考え方に感銘を受け、現在の研究に至っています。様々なスケールで生じる物理現象が安定的に秩序を保ち、その機能を発揮し維持できるのはなぜなのか、それを可能にする物理機構の実態はなにか、こうした疑問に対する探究心が研究のモチベーションになっています。

バイオメカニクスは文字通り“メカニクス”ですので、研究では生物学や生命科学のほか、機械工学の知見が必要不可欠。機械力学、材料力学、流体力学、熱力学の四力学を駆使して、難解な生命現象の解明に挑んでいます。また、シミュレーションに必要なのは数学。量子コンピューティングのような計算科学の最新技術も活用することで、従来は扱いきれなかった問題を一気に解決させていきたいと考えています。