グローバルヘルスにおける日本の果たすべき役割
東京都立大学法学部の詫摩佳代教授と、独立行政法人国際協力機構(JICA)で国際協力に従事する中村恵理氏は、学生時代のゼミ仲間。現在はお互いに母として子育てをしながら、学術研究と国際協力実務の第一線で活躍しています。
いまでも「佳代ちゃん」「恵理ちゃん」と呼び合う間柄のお二人に、学生時代の思い出や現在の仕事内容や信念、学生に向けたメッセージなどをお聞きしました。
<左>詫摩 佳代 教授
Kayo Takuma
法学部 法学科
<右>中村 恵理 氏
Eri Nakamura
独立行政法人国際協力機構(JICA)
【学生時代】共通の恩師に背中を押され研究と実務のフィールドへ
詫摩 中村さんとの出会いは、日本外交史や国際政治をテーマとする東京大学法学部の北岡伸一ゼミ。私は、日本人初の国連難民高等弁務官として活躍されていた緒方貞子さんに憧れ、外交や国際政治の勉強をしていました。そのゼミに文学部から参加したのが中村さんです。専攻外のゼミに挑戦するほど意欲的な女性として印象深く、私の中で特別な存在でした。
中村 私は幼い頃から祖父母の戦争体験を聞く機会があったのですが、日本は戦後数十年で豊かで平和な暮らしを享受できていると感じた一方で、世界では現在も戦禍で苦しむ人がいることも知り、将来は紛争影響地域で国際協力に関わる仕事がしたいと思って門を叩きました。
詫摩 中村さんは、当時から海外を飛び回って実体験を重ね、海外を知っているからなのか、ゼミでの発言内容には偏狭さがなく心に響きました。中村さんを含むゼミの仲間からは多くのことを学び、私自身の視野が広がった記憶があります。
中村 私は、学生時代は、政治や経済以外の切り口で世の中を捉えようと考えて文学部を選び、長期休みにはバックパッカーとしてアジアや南米を旅していました。自分の目で海外を見て、異文化環境を肌で感じながら新たな気づきを得ることに魅力を感じていたんです。学部時代には進路に迷うこともありましたが、国際協力に興味がある私に公共政策大学院への進学を勧めてくれたのが、ゼミの指導教員だった北岡伸一先生。その後、実際に国際協力の世界に入りましたので、先生が背中を押してくれたおかげで今があると思っています。「バッターボックスに立て」(外から批判することは簡単だが、当事者意識を持って学んだり発言をしなさい)という先生の言葉は、今も胸に刻まれています。北岡先生は現在、私が勤務する独立行政法人国際協力機構(JICA)の理事長なのですが、同じ主旨のお話を職員にもされることがあり、当時から一貫されていると感じます。
詫摩 私もゼミで先生から影響を受けて研究者の道を志し、大学院に進学しました。研究テーマも、かつて台湾で衛生政策を進めた後藤新平についてゼミで学んだことが契機となって、WHO(世界保健機関)によるグローバルヘルスへの興味が高まりましたし、現在の研究にもつながっています。先生はその後、ニューヨークで日本政府国連代表部の特命全権大使を務められて、そのお話を伺えたことも、研究の糧になりましたね。
【国際協力のあり方】協調が信頼を育み信頼が支援を加速させる
詫摩 現在のグローバルヘルスの研究では、中村さんのように実地体験を積み重ねるからこそ見えてくる課題も多く、実務分野の方と連携する重要性を感じています。日本は、新型コロナウイルス感染症が世界的に拡大する以前から、負担可能な費用で医療にアクセスできる体制を目指した国際支援を行い、実務的な支援策として日本発の医療リソースを提供してきた実績があります。そうした取り組みの継続が、短期的にはコロナ禍を終息に導き、中長期的には次なるパンデミックに備える体制づくりにつながるはずであり、活動を牽引するJICAの重要性もさらに高まると思います。
中村 JICAの保健分野の活動の軸は、途上国の保健システムの強化や同分野を担う政府高官から現場レベルのコミュニティヘルスワーカーまでを含む様々な保健人材の能力強化です。コロナ禍は、保健システムが機能することによって回避できる部分がありますが、途上国の多くは末端まで十分に機能している保健システムがないことが大きな課題です。
詫摩 途上国では、コロナ禍で励行されるべき手洗いのための環境自体が整っていないケースも珍しくないのですよね。
中村 石鹸があっても水が出なかったり、料理や洗濯のための水の使用が優先されたりすることもあり、手洗い用に水を残すこと自体、ハードルが高い地域も少なくありません。私が赴任した南スーダンでは、子どもたちがプラスチックの容器に水をくみ、家に持ち帰って少しずつ大切に料理などに使うのですが、その水もそれほどきれいな水とは言い難いケースもあります。ただ、それでも現地では貴重な水なんです。
詫摩 基本的な衛生設備・衛生インフラの確立は各国で支援を進めるものの、普及がままならない状況なのですね。
中村 協力する側であるドナーや国際機関、NGOが意図した使われ方ではなく、現地の人々が別の使い方を優先させてしまうケースや、そもそも圧倒的に支援物資が足りないケースもあります。また、交通インフラの未整備によって支援を必要とする場所に辿り着くことすらできない場合は、援助を行き渡らせるために、国際機関が空から物資を投下することもあります。
詫摩 ただ設備をつくるだけではなく、陸路などの周辺整備も並行して行う必要があるのですね。その点、先進諸国による政府開発援助(ODA)と比べて、中国は道路や鉄道といった伝統的なハード面のインフラ整備に注力する傾向にあると思います。
中村 中国は国際協力の多様な分野でリーダーシップを取ろうとしています。例えば、南スーダンの僻地では医療サービスを提供し、現地で喜ばれていました。中国に対しては自国の利益だけを追求しているといった批判もあり、実際にそういうケースもあるかとは思いますが、実はソフト面の支援を強化するなど、国際協力の内容をアップデートさせているんです。
詫摩 先進国からすると中国は野心的に映りますが、現地からは対応がスピーディーだと評価する声もありますよね。
中村 そうですね。南スーダンで新国家の立ち上げに携わった際、国際機関や先進国がインフラを整備しようとすると、環境アセスメントなどでとても時間がかかったのですが、中国はトップダウンですぐに動きます。賛否両論ありますが、現地住民からすれば、生活の改善に直結する支援として有効なケースがあることも事実。その点、日本にとって中国は、国際協力におけるライバルともいえますが、決して競う必要はなく、戦略的に協調したり、役割の棲み分けをしたりしながら、国際協力を推し進めることが肝心なのだと思います。
詫摩 保健協力と国家間の信頼関係は、どちらも欠いてはならない両輪ですので、信頼関係がないから協力しないのではなく、協力関係の中で信頼関係が醸成されていくことが理想です。日中韓の3国にしても、「日中韓保健大臣会合」という枠組み自体はあるものの、政治的な対立によって活用し切れていません。大切なのは未来志向で協力する姿勢です。
【日本の役割】戦後復興の経験もヒントに世界に資する独自性を追求
詫摩 途上国支援から核の問題、人権、AIDS、マラリア、そして新型コロナウイルスの感染拡大まで、グローバル社会にはさまざまな課題がありますが、私は教員として多様な事例を参考するとともに、中村さんのような実務経験者の視点を研究に取り入れながら、日本の保健協力における潜在力を掘り起こす研究成果を生み出せればと考えています。また、学生の指導においては、広く国際社会で解決すべき課題に関する基本的な知識と、選択可能なオプションも提示した上で、自分はどうするべきだと考えるのか、それはなぜなのかを自分の頭で考えて解決方法を導き出せる力を伸ばせればと考えています。正解のないテーマばかりですが、東京都立大学の学生の意識は非常に高いですし、社会をよりよく変革したいという気概を感じています。
中村 私はJICAで採用面接を担当することや大学の授業で学生さんに教えたりすることがありますが、同じように学生の皆さんの熱意を感じます。途上国でも日本国内でも、立ちはだかる問題は多様かつ複雑化して予測不能ですので、特定分野の知識というよりも、自分で動いて情報を集め、仮説を立てて解決策を考え、多様なステークホルダーを巻き込みながらその解決策を実施し、自論をブラッシュアップしていけるような人材に期待しています。そして、私自身は今後も実務家として紛争影響地域の国づくりや人材育成に携わりたいという希望を持っています。並行して、これまで実務家として南スーダンやソマリア、ブルンジなどで携わってきたプロジェクトのインパクトや教訓の整理集約も進めています。数々の実体験を紐解き、体系化できる部分は体系化することで、実務の成果をアカデミックな場で発信していきたいと考えています。そのプロセスを踏むことで、実務と学術研究の双方の知見を兼ね備え、それらの知見をまた現場で活用することができればと思います。現在、大学院に通い、紛争影響地域における民間セクターの役割について研究を進めている理由もそこにあります。
詫摩 そうですね。私も実務と学術研究は相互補完関係にあるべきだと思います。だからこそ私も、専門分野である「グローバルヘルス×国際政治」の研究成果をJICAの活動のような実務分野に還元できたり、論文を読んだ方に新たな視点を与えられたりできるような存在でありたいと考えています。現在は、先進諸国の独自性がどう現実の保健外交に活かされているか比較分析を進めており、各国の潜在力を具現化するプロセスを解明することで、今後求められる日本の役割をあぶり出したいのです。
中村 その役割を明らかにするヒントになるのが、日本の復興経験だと思います。いま紛争の渦中にある人々も、戦禍によって保健システム等の基本的な社会インフラへのアクセスがない人々も、数十年後には平和や安全な暮らしを手に入れられる可能性があることは、戦後復興を果たした日本人自身が経験として知っています。その経験も活かしながら途上国の人たちに伴走したいと考えています。祖父母の戦争体験に端を発するこの思いは、赴任先や出張先の途上国で出会った人々のエネルギー、今の日本では感じられないような国づくりへの情熱や献身に触れることでより強固になりました。これを読んだ学生さんが国際協力にやりがいを感じ、将来の選択肢に加えてくれると嬉しいです。