言語や文化の垣根を越えたヨーロッパ文学の系譜に迫る
『Wuthering Heights』(邦題『嵐が丘』)といえば19世紀のイギリスを代表する文学作品。著者のエミリー・ブロンテとその姉妹の作品に見られる相関性やドイツ・ロマン主義文学から受けた影響などを考察し国境を越えた新たな汎ヨーロッパ的系譜の構築を目指す人文社会学部人文学科の佐久間千尋助教にお話を聞きました。
佐久間 千尋 助教
SAKUMA Chihiro
人文社会学部 人文学科 英語圏文化論教室
読めば読むほど新たな発見のある『嵐が丘』
私にとって、現在の研究につながる転機となったのは大学3年次の夏。語学研修でイギリスに行く機会があり、19世紀に活躍した作家姉妹であるブロンテ姉妹が住んでいた牧師館を訪れたことです。姉妹の一人、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』は翻訳版で読んだ経験はありましたが、卒業論文では原書で読破。理解するまでに時間がかかったものの、ことあるごとに読み返すと新発見の連続でした。見過ごしがちな何気ない記述でも実は重要な意味があるなど、巧妙かつ周到に複雑で謎めいた世界観が描かれており、新たに気づいた切り口で読み進めると、物語が新たな様相を呈するような感覚を覚えました。
また、『嵐が丘』で興味深かったのは「窓」をはじめとした空間の描写方法や、その空間を行き交う登場人物の心理描写です。大学院に進学して研究を続けるうちに、空間描写と登場人物の語りの構造が関係していることもわかり、現在進めているドイツ・ロマン主義文学との関連性や汎ヨーロッパ性の研究のベースとなっています。
【Web限定!】 私の高校時代は、日本文学のほか、シャーロック・ホームズシリーズやアガサ・クリスティの推理小説を中心に、ヨーロッパ文学の翻訳版を愛読する日々を送っていました。その後、大学時代に『嵐が丘』に興味を持ち、卒業論文では『嵐が丘』の主人公を取り巻く人間関係をテーマにしました。
ちなみに『嵐が丘』といえば、イギリスのシンガーソングライターであるケイト・ブッシュの代表曲としても知られ、かつて日本テレビ系列で放送されていた人気トーク番組『恋のから騒ぎ』のオープニング曲としても使用されていました。このプロモーションビデオでは、『嵐が丘』のヒロインである “キャサリン”の心情が歌われています。
また、『嵐が丘』は宝塚歌劇団によって舞台化されたほか、日本を舞台にしたドラマ『愛の嵐』として翻案されたことがあります。さらには作家の水村美苗さんも日本を舞台にして『嵐が丘』を翻案した『本格小説』という作品を発表しており、日本でも多くの方が『嵐が丘』に触れている可能性があると思います。
『嵐が丘』で描かれている「窓」は登場人物の心模様を代弁している
『嵐が丘』で私が着目した「窓」。建物の内側と外側の境目ですが、ドアと違って透明なため、誰かがカーテンで覆い隠して内側を守ることもあれば、建物内の閉塞感を解放するために開けることもできます。『嵐が丘』では、登場人物が何らかの行動を取った際の心象が窓の描写をとおして表現されており、空間の変容と心象の変容との連動性を解き明かすことで、人間関係における力学が垣間見えるのです。同様の特徴は、18世紀中頃から19世紀初頭にかけて流行したゴシック小説と呼ばれるジャンル、いわゆる恐怖小説にも見られ、先行研究でも屋敷や古城などの空間が、閉鎖性と解放性の象徴として使われていると指摘されています。
また、小説は1人称での語りだけではなく、誰かが話した内容について別の人物が語り手となり、伝聞形式で記述していく二重構造や、三重から四重、さらにゴシック小説では五重構造の作品もあります。『嵐が丘』は空間と心象が複雑に絡み合いながら、入れ子構造と呼ばれる語りの構造の重層性にも特徴があり、この点でもゴシック小説との共通性が見られるのです。現段階ではエミリーがゴシック小説を読んでいたことを示す確固たる根拠はありませんが、今後、ゴシック小説やドイツ・ロマン主義文学との相関性を導き出す証拠を見つけ、19世紀のイギリス文学における新たな系譜を提示していきたいと考えています。
推測の域を脱し得ない文学研究に明確な根拠と新規性を提示したい
ブロンテ姉妹の作品全般に目を向けると、ロマンス的な要素や人間関係の描写などに類似点が見られ、『ワイルドフェル・ホールの住人』というアン・ブロンテの作品は、複雑な構造がエミリーの『嵐が丘』と類似しています。ただ、アンはリアリズム小説として当時の社会背景を取り入れる傾向があり、『アグネス・グレイ』という作品は、住み込みの家庭教師をしていた際の実体験に基づくもの。アンはリアリズム小説の手法を取り入れることで独自性を生み出したと考えられます。また、3姉妹のなかでもっとも多くの作品を著したシャーロット・ブロンテは、リアリズムを意識した『教授』、労働者たちによるラダイト運動などの社会背景をとりいれた『シャーリー』という社会小説を書いており、『嵐が丘』の1作品しか残していないエミリーだけが特異性をもって語られることもあります。
もっとも、ブロンテ姉妹についての先行研究は豊富なのですが、推測に基づくものも少なくありません。シャーロットとエミリーがベルギーのブリュッセルに留学していた事実もあり、隣国のドイツ・ロマン主義文学の思想や概念を取り入れた可能性は考えられますが、それを断定的に論じた先行研究は見受けられません。だからこそ私は、先行研究でも確固たる証拠がなく、明瞭な指摘がされてこなかった領域の開拓に挑み、説得力をもってドイツ・ロマン主義文学の新たな汎ヨーロッパ的系譜を論じていきたいのです。
バックグラウンドが違っても読み込むことで理解は進む
日本人の研究者が海外文学を研究する際、文化的背景に基づく感覚の違いが難しさを生むこともあります。ある研究者が自然な流れだと感じて読み飛ばしてしまう場面が、異文化環境で生まれ育った研究者からすると自然な流れではないことも珍しくありません。私自身、当初はイギリスの皮肉の文化など、行間に隠された意味までは感じ取ることができませんでした。ただ、同じ作家の作品をいくつか読んだり、同時代の作家の作品を読んだりすることで気づけることも多いほか、先行研究で指摘された内容も理解の助けとなって感覚が養われていくのです。
ブロンテ姉妹の作品とドイツ・ロマン主義との関連性について、私のような語りの構造と空間の相互作用とテクスト分析を組み合わせる研究スタイルは主流ではありませんが、効果的に作用させることで新境地の開拓につなげたいと考えています。
洞察力・想像力・分析力など、文学研究は汎用スキルを高めてくれる
読書の際におすすめしたいのは、先入観を持たずに読み進め、純粋に気になった点や印象に残った点を書き出していくことです。その中から特に興味を持った点を深堀りしていくことが、専門的な文学研究の出発点にもなるのです。作品には作者がさまざまな伏線を散りばめており、最初は意味や意図が不明な記述もありますが、それが積み重なってひとつの大きなテーマになることもあれば、別の記述を考察することで理解につながることもあるでしょう。
昨今はテレビドラマの考察がブームになっていますが、私が担当する非常勤先の演習授業でも学生が小説を読み、個々の見解を発表するグループワークやディスカッションを行っています。自分とは違う切り口での解釈に気づき、伏線が回収される楽しみもありますし、日常的に英語に接しますので、英語力そのものも高まります。そして、作品をとおして多様な人間模様に触れ、行間を読む洞察力や想像力が磨かれるほか、多角的な分析力も向上していく点に、文学研究の意義や醍醐味があるのです。