Miyacology

牧野標本にあふれる情熱とエネルギーに学問の本質を見る

日本の植物分類学を切り開いた牧野富太郎博士。残された膨大な標本からは、生涯をかけて植物と向き合った博士の偉業を読み取ることができます。今回は、牧野標本館の館長でもある理学部の村上哲明教授と、牧野博士のひ孫であり練馬区立牧野記念庭園学芸員の牧野一浡さんのお二人に、牧野標本の価値や博士の残した功績についてお聞きしました。


植物学者 牧野富太郎博士(1862-1957)

日本の植物分類学の草分けであり、日本人科学者としても草分け的存在。現・高知県高岡郡佐川町生まれ。明治17年、22歳で上京の際、東京大学の植物学教室に出入りを許され、明治26年には帝国大学(現・東京大学)理科大学の助手として、名実ともに植物学者の道に。生涯において植物学に身を捧げ、博士が命名した植物の学名は、1,500を超える。収集した標本は約40万枚を超え、蔵書は約4万5千冊以上に。1953年東京都名誉都民。1957年文化勲章受章。
※画像提供:高知県立牧野植物園



村上 哲明 教授

理学部生命科学科教授。牧野標本館・館長。専門は、植物系統分類学、進化学、保全生物学。東京大学大学院理学系研究科生物学専攻博士課程修了後、東京大学理学部附属植物園助手、京都大学大学院理学研究科助教授などを経て現職。日本植物分類学会・会長。

牧野 一浡

牧野記念庭園学芸員。1946(昭和21)年、満州新京生まれ。牧野富太郎博士(1862~1957年)のひ孫として、晩年の10年間、生活を共にした。長年勤めた企業を定年退職後、練馬区立牧野記念庭園リニューアルを機に学芸員の資格を得て、庭園の運営管理を担う。

牧野博士が残した膨大な標本とこだわり

村上 私は、本学・牧野標本館の責任者として、標本館の管理運営に携わっています。牧野標本館では、ご遺族から東京都に寄贈いただいた植物標本約16万点を所有しています。この膨大な点数からもわかる通り、牧野富太郎先生は野生植物はもとより野菜や庭木などまであらゆる植物に興味をもち、標本にされています。場所は日本全国、北は北海道から南は鹿児島県の種子島、屋久島にまで自ら足を運び採集されているのです。当時はろくに鉄道もない時代ですから、徒歩や馬車などで移動したのでしょう。膨大な牧野標本を拝見するだけで、その情熱とエネルギーに圧倒されます。

牧野 富太郎は、東京大学では講師だったこともあって、フィールドに出やすい環境でした。彼としては机に向かって研究しているより、非常に幸せなことだったかもしれません。当時でも膨大にあった大切な標本を手元に置くために郊外の田園地帯だった大泉に転居し、1941年には華道家の安達潮花の寄贈で牧野植物標品館を建設しました。私も幼少時はそこに住んでいましたが、標品館の中は誰も入れないぐらいに標本が山積みでした。私が富太郎と一緒に生活していたのは10 年間ほどで、小学校4 年の時に他界しています。富太郎の研究部屋には「邪魔になるから入るな」と祖母にきつく言われていたので、研究している姿を直接見ることはほとんどありませんでしたね。

村上 標本づくりは、採集したら、きれいに押して素早く乾かさなくてはいけません。牧野先生の標本は、花がきれいに広がるようにきちんと押されていて、細かいところの特徴もわかりやすい。本当に繊細で美しいもので、ほれぼれと見ほれてしまうものばかりです。

牧野 当時は標本づくりの一部を家族に手伝わせることもあったのですが、強いこだわりがあり、作業手順にはすごく厳しかったそうです。間に挟む吸い取り紙をきちんと干していなかったと、激しく怒られたと祖母から聞いたことがあります。こだわりは手順だけでなく、家には重しの石をはじめとした様々な標本づくり専用の道具がありました。

村上 牧野先生の道具へのこだわりは耳にしたことがあります。植物を持ち帰るための銅乱も、特注でつくられていたとか。通常の仕様だとつくりが弱く、落とすと壊れてしまうことがあるのですが、牧野先生の銅乱は缶詰のように端を打ちつけて頑丈につくってあるのです。この話からも先生がいかに標本づくりのために工夫をこらしていたかを知ることができます。

牧野 その銅乱ですが、牧野式銅乱と呼ばれていて、練馬区記念庭園にも展示しています。剪定バサミもヘンケル社製のものを愛用していて、「趣味の植物採集」という本に、ヘンケル社の剪定バサミについて詳しく書いています。標本に関連する全てにこだわりを超える愛情があったのだと思います。

日本中の植物を自らで明らかにしたいという情熱

村上 道具にもこだわられてつくりこまれた牧野先生の膨大な標本からは、今も情熱とエネルギーが伝わってきます。本学でまとめて保存・管理ができたことは幸運なことでしたし、学生たちにとっても非常に良かった。私は、知識や技術よりも、学生に学問に対する情熱を伝えることが最も大切だと思っています。学問は時代に合わせて変化するので、古くなったり姿を変えてしまうのは仕方ない。でも、残された標本や膨大な資料、エピソードなどから伝わる牧野先生の情熱やエネルギーは、古くなるどころか現在の学生たちにも大いに影響を与えています。

牧野 植物誌をつくるという目的のために、生涯であれだけの標本を集め、本も何万冊も買い集めています。服部雪斎や関根雲停といった江戸時代の博物絵師が描いた作品も残されていました。

村上 牧野先生は、自分で1,500を超える植物に学名をつけて新種として発表されていますし、今でも300を超える植物に牧野先生の学名がそのまま使われています。当時の東大の先生方は、採集した標本をヨーロッパの植物学者に送って新種かどうか調べてもらっていたのですが、牧野先生は自分の手で日本に生えている全ての植物を明らかにし、命名しようとされたのです。

牧野 標本づくりだけでなく、自分で精密な絵も描いています。絵が描けるのは、植物学者として才能に恵まれたと、自分でも言っていたそうです。

村上 まさにその通りですね。牧野先生の精密な植物画は、資料としても絵画としても素晴らしいです。

牧野 あれだけ精密な図ですから、大日本植物誌の編纂は7 ~ 8 年かかって第1巻第4集で終わりました。あの精度を保ちながら多くの作品をつくるとすれば、いくら時間があっても足りないでしょう。

村上 日本とヨーロッパの植物相を比べると、日本は熱帯と同じくらい植物の種類が多いのです。牧野先生は全国で見てきた日本の植物の全てを自分で明らかにしようと考えて、かつそれらを自分の絵で紹介しようとしていたというのは本当に「すごい」の一言です。

牧野 実は絵だけでなく、写真でも記録を残そうとしていたようです。当時東大に出入りしていた有名な写真家で、富太郎の姿を写真に収めてくれたらしい人物と一緒に、植物を写真にした図譜を出版し、その他の写真も最近発見されました。新しいことには何でも挑戦していたようですから、もし現在のデジタル社会に生きていたら、彼が何をしたのだろうと考えると面白いですね。

村上 写真にも関心があったとは驚きです。今でこそ、植物図鑑は写真が中心ですが、実は絵の方が写真より優れた部分もあります。絵は一部分をとらえる写真とは違い、重要な特徴を詳しく描いたり、花と果実、芽吹きの状態を1枚の絵に同時に記録することができます。牧野先生は、研究者の目と素晴らしい画力で植物をとらえて描かれているので、非常に貴重だと思います。

経年を追って採集した標本は歴史資料としても秀逸

村上 牧野先生はその場所に生えている草や木、あらゆる植物を標本にしているので、例えば標本がつくられた100年前の自然環境を推定することができます。渋谷は今でこそビルの街ですが、明治時代は田園地帯でした。牧野先生は、渋谷で採集したそばや大根、米、藍、湿った田園地帯でよく見かけるイカリソウ、ホトトギス、オナモミといった植物の標本を残していて、明治の頃の自然環境を牧野先生の標本から推察することができます。歴史的な記録資料としてもとても貴重なものです。また、牧野先生は自分が気に入った場所を何度も訪れて、同じ植物種を採集しているので、100年前と80年前、60年前と現在など、比較研究をすることができるのです。私は植物の遺伝子を調べる研究もしていますが、牧野先生の標本を東大の先生が解析したところ、それらの遺伝子が読み取れました。その結果、現在に近づくにつれて徐々に暑い場所で生きていくのに適した対立遺伝子が増えていることがわかりました。

牧野 自分が行けない時は人に頼んで採集してもらっていましたね。書斎の机には、採集の依頼や催促をするハガキが多くつまれていました。

全国の植物愛好家が牧野博士のサポーター

村上 もう一つ、後世に伝えたい牧野先生の卓越している部分は、誰に対しても分け隔てなく接する姿勢です。各地の植物愛好家に対しても分け隔てなく接していたので、皆に慕われたのだと思います。だからこそ、日本中の植物愛好家が変わった植物を見つけたら、牧野先生に標本を送ってきたのです。牧野標本館にある牧野先生の標本には、一般の愛好家から送られた膨大な標本も含まれています。まさに日本中に牧野先生のファン、サポーターがいた。後の世代の日本人植物学者も、牧野先生を見習って地方の愛好家の方々を大切にしてきましたから、その良好な関係は今も続いています。環境省が絶滅危惧種の現況調査を行う時も、全国の愛好家が協力してくださるので非常に精密な調査ができています。これは日本の植物学における大いなる財産です。

牧野 富太郎の基準は植物だったので、植物が好きな人は全て仲間、友だちだったのでしょう。子どもでもお年寄りでも、水平な人間関係を築いていたようです。

村上 私が現在、会長をしている日本植物分類学会では、会員の多くが研究を本職としないノンプロの方です。むしろプロの研究者のほうが少ないという、ちょっと変わった学会です。プロとノンプロ(愛好家)の方とが協力し合って日本の植物を調べようとするのは素晴らしいことで、この関係性を大切にしなくてはと思います。牧野先生の水平的な人間関係が、後世まで良い影響を与え続けてくれた結果です。

牧野 まっすぐな人でしたからね。富太郎は、東大の学生でもなく、正式な教員でもなかったのに、超エリート集団だった当時の東大生の中でどんな立場だったのか、子孫としては気になっています。

村上 私が学生時代に東大で師事した先生の中には、直接、牧野先生から教わった方もいましたが、とても感銘を受けたとおっしゃっていました。先生の図鑑を見ると、植物の名前の語源から実生活でどう使われているかまで、あらゆることが紹介されています。東大の学生たちも、牧野先生は何を聞いても教えてくれる存在として、大切に思っていたはずです。

牧野 自分の知っている知識を、誰にでも惜しげもなく与えてくれる人だったので、きっと慕われていたと思います。

NHK連続テレビ小説の主人公のモデルに

牧野 富太郎の人生は、困難もあったようですが、大好きな植物にまっすぐ向き合い生きることができて、良い人生だったのだと思います。NHKの連続テレビ小説になるというお話が出た際に、プロデューサーの方が牧野記念庭園に来園され、掲示してある富太郎の家族写真を見て、家族に囲まれた幸せそうな姿に感じ入るものがあったと言われました。富太郎のことを考えていたからか、最近は私も生まれ変わったら、研究者になってみたいと思うこともあります。

村上 私自身も高校生の時に、植物学を目指そうと思い、そのままずっと研究職に進んで来られたのは、非常に幸せだったと思います。植物分類学は、決して一人ではできなくて、学生や植物愛好家の方と協力し合って進める側面がある。牧野先生が植物を通じて日本中の愛好家と協力し合えたことは、先生の喜びでもあったのではないでしょうか。

牧野 NHKのドラマを見て、若い人をはじめとした多くの人に植物に興味を持って、好きになってもらえると良いですね。牧野記念庭園も、ドラマの発表以来、来園者が一気に増えました。牧野富太郎の聖地として、富太郎の熱い思いを、伝えていきたいです。

村上 植物学はとても身近な学問で、子どもから大人まで誰にでも新しい発見のチャンスがありますから、ぜひ興味を持ってほしいです。野外での観察や採取、最新技術を用いての実験や植物の遺伝子を調べたりと、想像以上にアクティブな学問でもあります。これを機に、多くの情熱あふれる若い人たちが、牧野先生の後に続くことを、私も期待しています。

標本ギャラリー Specimen Gallery

現在では、より幅広い標本の活用を促進すべく、所蔵標本を画像データベース化し、ウェブサイトで公開する作業を進めています。ここでは、その一部をギャラリーでご紹介します。

ヒメハッカ

以前は国内の湿地帯などに見られた多年生植物であったが、現在は絶滅危惧植物種に選定されている。高さ50cmにもなる直立する茎をもち、8~10月にかけて茎の先に薄紫色の花をつける。学名は「Mentha japonica(Miq.)Makino」。その名の通り、葉をちぎって揉むとハッカの香りがする。


ヤマトグサ

牧野富太郎が日本人で初めて発見し、日本初の新種報告であることから、その和名として「大和草(ヤマトグサ)」と名付けた。落葉樹林の中などに見られる多年草。花粉媒介を風に頼る風媒花で、雌花は小さく、雄花の方がよく目立つ。雄花と雌花はひとつの個体に両方つく。小さく可憐な花を咲かせる。


ヤッコソウ

高知県で発見、開花時の姿が「奴(やっこ)さん」に似ていることから牧野富太郎により命名された。葉緑素を持たず光合成をしない全寄生植物のため、全体的に白色をしている。雌花の時期になると蜜を求めて昆虫が集まる。日本では九州・四国地方に分布。高知県では天然記念物に指定されている。


ホウビシダ

葉の一枚一枚が鳥の翼のような特徴的な形をしており、鳳凰の尾と例えられたことから、鳳尾(ホウビ)シダと名付けられた。常緑性の多年生シダ植物。特に湿度の高い渓谷・川沿いなどを好む。葉のサイズは大体長さ10~20cm、幅4cm程度だが、大きいものでは長さ35cm、幅9cmにも達するものもある。