教育現場の「主体」は誰なのか 生徒の権利と責任を問い直す
頭髪の色や長さなどに関して、ときに根拠が不明な「ブラック校則」がまかり通ってしまう日本の教育現場。守られるべき子どもの権利や、権利に伴う責任について、国内外での精力的なインタビュー調査をとおして研究を進める人文社会学部人間社会学科の竹原幸太准教授にお話を聞きました。
竹原 幸太 准教授
TAKEHARA Kota
人文社会学部 人間社会学科
18歳成年の導入は生徒自治を見つめなおす契機に
日本では2022年4月に「18歳成年」が導入され、少年法分野では、18歳と19歳に成人と同等の責任を持たせるか否かという議論が巻き起こりました。結果的には、刑事処分は科さないものの従来の少年よりは厳しく対処する「特定少年」という枠組みが生まれました。18歳といえば高校3年生。教育分野では、いわゆる「ブラック校則」に悩む生徒が自分たちで学校生活のルールをつくる権利がクローズアップされるようになり、18歳成年に関連する議論は、子どもの権利と責任が混在し、混乱している状況といえます。生徒自身がルールづくりに参加する権利を行使できるという点では肯定的に論じられるのですが、ルールを違反する生徒が出た場合、誰がどのように処分を決定するのかという点では責任が伴い、生徒自治による運営の難しさがあるのです。そこで注目すべきが、米国で進められている「ジャスト・コミュニティ」と呼ばれる取り組みです。
生徒間の意見対立も成長の原動力となる
私が視察したのは、アメリカ・ニューヨーク郊外にあるスカースデール高校。同校のオルタナティブスクール(通称、Aスクール)では、生徒参加と討議を徹底したジャスト・コミュニティという取り組みを実践し、ルール違反をした生徒への対応方法も討議しています。その際、既存の判断基準に従って教員主導で対応を決めるのではなく、生徒が中心となって話し合い、既存のルールを見直しながら「正義」を編み直していくような「修復的正義」という観点で議論が進められます。
問題解決を生徒に委ねれば、意見の対立が起こるケースもあるため、大人が先回りして物事を進めがちなのですが、Aスクールは生徒間の対立自体も成長プロセスの通過点だとするスタンス。仮に生徒参加による合意形成や意思決定の結果が失敗に終わっても、それも教育的に意味のある経験になるという考えです。生徒の対立をなくそうと考えることが不自然なのであり、ジャスト・コミュニティでの討議は生徒が多様な考え方を認識し、価値観を広げるチャンスだと捉えられているのです。
【Web限定!】A-スクールは、生徒も教員も相互にリスペクトすることを重視しています。例えば、遅刻も先生や周囲の生徒へのリスペクトを欠く行為とされており、毎日のように遅刻する生徒への対応方法が討議対象となったこともあります。その結果、遅刻する生徒の近所に住む上級生が自らモーニングコールを行い、登校時には迎えに行くことを提案。生徒の主体的な意見表明と行動によって問題解決につながったといいます。
また、現地では自動車通学も認められているのですが、ある生徒が同級生を乗せて飲酒運転をしたことが判明した際にも討議が行われました。このときは、同級生の命を危険にさらしたことへの反省が感じられなかったため、州法に則った治療や法的処分が必要だとする判断に至りました。生徒同士での紛争解決を尊重する一方で、大人が介入すべき事例を見極めて対応する必要があるということです。
形式的な生徒参加ではなく参加している実感が重要
生徒自身がルールづくりを進める際に大切なのは、自分たちが合意形成や意思決定に参加しているという実感を高めることです。例えば、最終的には多数決で物事を決めるにしても、投票の後に少数派の意見を聴く時間を設け、多数派に熟慮させた上で再度投票を行うことで、少数派の参加実感を高めることも可能です。また、時間的制約があるからといって採決を急ぐのではなく、保留して熟成させてから議論を深めることも大切。いずれもAスクールで実践されている取り組みです。
しかし日本では、最初から答えが決まっている中で、形式的に生徒を参加させる操り参加やお飾り参加が多いとの指摘もあります。意見を聞くには聞いた上で、変化を恐れ変わろうとしない学校側の態度は、傾聴ではなく聞き流しとなり、生徒のあきらめ感を高めるばかり。必要なのは、生徒参加による小さな成功体験を積み重ねていける環境です。
【Web限定!】私が中高生だった頃も、周りには校則を変えたいと生徒会活動に励む仲間がいましたが、決まって「その校則があることを承知で入学したのだから」と教員が言うのです。また、高校時代は前髪の長さをはじめ、校則が厳しかったのですが、私自身は成績が良い方だったためか、多少長くても軽く諭される程度。しかし、成績が芳しくない生徒は厳しい言葉で注意されていました。学校の先生は人を見るのか、成績を見るのか。テストで高得点を取れれば大抵のことは許されると考える生徒が増えるのも無理はないと、高校生ながらに感じたものです。
学校での教育と少年院での教育の共通原理を分析したい
世界的な動向に目を向けると、1989年に「国連子どもの権利条約」が採択され、日本は1994年に批准しました。批准後は、国内での取り組みを国連に提出し、国連から審査を受けます。日本はブラック校則の見直しや、いじめ・不登校に対するサポート、児童虐待への対応など、子どもの権利保障が進んでいないとの指摘を受けました。実際、批准までのタイムラグの背景には、子どもに権利を委ねると、子どものわがままを許す甘やかしになるという学校教育現場の危惧がありました。生徒は学校と契約しているのであり、その学校のルールに従うべき。学校は教員が主体であり、生徒は客体だとするロジックです。
また、一般的に学校教育では学力向上が重視されがちですが、教育の力として問われているのは、教員の期待値から外れた生徒をいかにサポートするのかということ。しかし、教育期待値から外れた生徒は、対応すべき範疇から外れた生徒と捉える意識が強いようにも思います。国内では文部科学省が学校教育を管轄するほかにも、厚生労働省は児童養護施設などでの教育を管轄し、法務省は少年院での矯正教育を管轄していますが、一人の人間の社会化を図る教育的な作用に管轄官庁は関係ありません。ですので、矯正教育などには、教員の期待値から外れた生徒への指導に有用な共通原理や、校則違反などのトラブルの解決に役立つノウハウが潜んでいると思えるのです。
生徒参加の促進は教員をも変えていく
最後に紹介するのは国内での先進事例です。山形県の遊佐町では、地域の中高生が「少年議員」となって活動する取り組みが進められ、中高生へのアンケート結果を踏まえた政策提言などを行っています。例えば、自転車通学の比率が高い地域に街灯が少なく危険だからと街灯の増設を実現させた実績もあります。少年議員となった中高生は、学校では経験できないことを地域コミュニティで経験しながら、自らの社会参加が何かしらの影響力を持てるという意識を高めているのです。
一方、学校教育の現場では、教員が疲弊していく現実があり、教員の待遇を改善する働き方改革の必要性が叫ばれています。ただし、Aスクールでは、ジャスト・コミュニティによって、生徒の変容を実現させたとともに、教員の変容も見られたとのこと。生徒による意思決定が教員の想定を超え、教員が教育観や指導方法を見直して更新する契機となっており、日本国内での実践に向けてさまざまな示唆を与えてくれるのです。